地方国立大に存在価値はあるのか?
地方国立大の存在意義と将来性
偏差値の低い、低すぎる地方国立大に存在価値は本当にあるのだろうか?
ここでいう低すぎるというのは大体偏差値40台、つまりセンター試験得点率で6割切るような大学のことだ。
独立行政法人になっても地方国立大には多額の税金が投入されている。これは市民が日夜働き稼いだ血税だ。しかも地方に行けばいくほど県民の所得が低くなる日本において、割を食っているのは地方民であるということに留意したい。
だから我々納税者である市民は、大学の存在意義に対して物申す権利をもっている。
大学が聖域であると考えるとのは大きな間違い。学問や学術研究は人を偉くしない。学者が労働を行わず研究を続けられるのは勤勉な労働者のおかげである。
偏差値40、センター得点率6割は、学問への意欲・興味のなさの表れ
(関係ないけど写真中の鳥は全てユリカモメです。ずらーっと並んでてすごい光景。)
少なくともセンター試験で偏差値40半ば、大体6割も得点できないような生徒は授業をまともに聞いていない。高校時代いささかでも勉学に励んだなら最低でも7割の得点率はあるはずだ。
偏差値40程度の生徒が大学に行っても何も学ばない。「学ぶことができない」といったほうが正しい。なぜなら高校の勉強も理解していないその程度の学力では、大学から始まる本格的な研究についていけないからだ。漢字もろくに書けない、計算は苦手、化学式は見たくないという具合。偏差値40程度の学生はおそろしいほど低レベルだ。
そんなバカ学生はサークル活動と幼稚な思い出づくりで学生生活を終えるだろう。ここで思うのは大学が本来何をすべき場所かということだ。文理問わず大学は学問の場であろう。
学者の生活は労働者に勤労によって成り立っている
かつてアインシュタインは言った。
「私は1日に100回は自分に言い聞かせます。私の精神的および物質的生活は他人の労働の上に成り立っているということを。」
学者は本来これくらい謙虚であるべきだ。
存在価値を考えるのがおかしいと主張する人たちもいる。でもここで私が強調したいのは、大学という仕組み・システムに対して存在価値を論じているだけであり、そこで働く大学人に対して個別に言っているわけではないということ。
研究は労働ではない
研究が労働?それは単なる研究者の驕りである。
たとえその研究が国から助成を受けていたとしても、人の生活を直接支えているわけではないからだ。どんな研究でも、それが公に認められ「社会に還元していく何か」にならない限りは、そこまでは結局「趣味や遊び」である。
大学教授は偉くない
残念ながら今の日本には、全く謙虚でない学者、大学人が多くいるようで非常に残念だ。自分で自分を偉いと錯覚する教授の多いこと多いこと。。。
基本的に人間の営為はすべて遊びである。人間の生み出す活動に伴う業績といっても人間にしか基本的に役に立たない。
学問も研究も労働も「人間のためのもの」に過ぎない。「人間が存在してくれて助かってるよ」と思っている動物は少なくとも地球上には存在しないだろう。
「世で何を為そうが人間は偉くならない」
いわんや大学教授においてをや。
理系の教授は時に動物を実験台にして人間のエゴを突き詰めてゆく。存在価値がないと考える市民の声があっても、それは正しい意見だ。そうした意見を謙虚に受け止めよ。
一度存在し始めた大学という機関とそこで勤務する教授・大学人は無条件にその存在を認め続けられなければならない。そう考える大学人、というか税金に甘えた人達がこの日本に溢れている。地方国立大は時宜に応じ常に世間の評価を受け、その社会の中での存在価値を判断されることを受け入れるべきだ。
実績を上げられない地方国立大学に存在価値はない
納税者として、大学という社会の仕組み・システムに対してもっと市民は意見を持つべきだろう。
偏差値の低すぎる大学、紀要にしか書かない教授ばかり存在する大学に存在価値はない。
なぜなら、「投入した税金に見合った、社会における付加価値」を生み出していないからだ。
ろくに研究実績を残さない大学教授は単なる税金泥棒だ。
一流大へ行く優秀な生徒への奨学金の拡充を!
※写真は埼玉県の荒幡富士の頂から見た風景(トトロの森の近く)
私個人の考えであるが、将来、学生減少と地方経済の衰退により地方国立大は多くが廃校するだろう。というか潰れたほうがいい。そして浮いたお金(税金)を一流大・研究機関に進学する優秀な生徒への奨学金として使ってほしい。
それこそが、日本を良くする人材と学問研究を生み出す礎になるからだ。